高御座

令和元年10月22日、即位礼正殿の儀が執り行われました。
皇居正殿松の間において、京都御所紫宸殿から移された高御座・御帳台に天皇皇后両陛下がお昇りになられ、天皇陛下のおことば を宣べられました。

この高御座と御帳台は、年が明けて京都御所に還された後、3月に一般参観で公開の予定でしたが、新型コロナウイルス感染症の影響により延期され、7月18日から8月27日にようやく公開されました。

そこで、お盆休みの間に参観に行こうとスケジュールを組んでおりましたが、直前になって、参観休止日にあたることがわかり日程変更。

猛暑の中の参観は危険と判断し、開門直後の時間帯のめがけて京都まで。
9時前に到着しましたが、清所門から塀に沿って既に行列が出来ておりました。


順路に従い参観します。


承明門から紫宸殿が見えます。まだ人影もまばらです。



左近の桜


正面に高御座。向かって右に、御帳台


右近の橘


紫宸殿の北面を通り門の外に出ます。


京都御所から、出町柳駅まで向かいましたが、賀茂大橋からは大文字山を望むことができました。

世界遺産登録 百舌鳥・古市古墳群

ユネスコ世界遺産委員会は7月6日、「百舌鳥・古市古墳群」を世界文化遺産に登録すると決定しました。

堺市出身で、古墳を身近に育った私にとって、嬉しい限りです。
といっても、私の住んでいる地区には、古墳はなかったのですが、少し行動範囲を広げると、古墳の黒々とした森が目につき、小学校の事業等でも、仁徳天皇の治世などを教わり、私の住んでいる堺は、日本の歴史の中でも重要な場所だったのだと、子供心に刻んだものです。

さて、この数年来スマートフォンで写真を撮影し、SNS等にアップしてきておりますが、堺市を訪問した折に古墳を撮影しておりますので、この機会にまとめてみました。

2014年のことですが、仕事で堺市役所を訪れましたので、市役所21階にある展望ロビーに登ってみました。


堺市役所21階展望ロビーは、地上80m 朝9:00から夜21:00まで、入場無料で利用でき、百舌鳥古墳群を高所から展望できる唯一のスポットです。
南海高野線の向こうに広がる森が、仁徳天皇陵(大山古墳)です。


展望ロビー内の喫茶室では、当時はまだ、珍しかった「古墳カレー」をいただきました。

2014.05.02

数か月後、再び堺市役所を訪れる機会があり、阪和線の三国ヶ丘経由で堺東駅に向かいました。
三国ヶ丘駅の南海高野線側の屋上は、みくにん広場として朝9:00から夕方18:00まで、公開されており、仁徳天皇陵を間近に望めるスポットです。

2014.07.17


仁徳天皇陵の南には、履中天皇陵(石津ヶ丘古墳)があり、最近、後円部の対岸に展望台(ビュースポット)が設けられたと知り、訪れてきました。


生憎の天気でしたが、堀を挟んで古墳を間近に望み迫力があります。
スマートフォンのカメラでは全容を収めることが出来ないほどの大きさを感じます。

仁徳天皇陵もそうですが、履中天皇陵の周囲には、多くの培墳が築かれており、ビュースポットの北側には、七観山古墳があります。
七観山古墳は戦後まもなく破壊されたそうですが、近年、古墳を模して墳丘が築かれております。

また、七観山古墳の墳丘には登ることが出来、履中天皇陵をここからも望むことが出来ます。

2019.05.20


Web等高線メーカーというサイトで、国土地理院の地形図に、数値地図のデータから等高線をオーバーレイして出力することが出来ます。


百舌鳥古墳の周辺を早速作図してみました。古墳群の西側、薄青緑色のあたりは、古代は海で、海上からは、大山古墳、石津ヶ丘古墳の二つの大きな古墳が聳えているように望めたのかと想像すると楽しくなってきます。

日本書紀・古事記によりますと、応神天皇-仁徳天皇-履中天皇という系譜ですが、古墳の築造は、石津ヶ丘古墳(履中天皇陵)-誉田御廟山古墳(応神天皇陵)-大山古墳(仁徳天皇陵)の順に築造されたそうです。


「畿内における大型古墳の編年」(白石太一郎)より(一部編集)

それぞれの古墳の被葬者も、実際には不明とのことですが、この図表を眺めているだけでも想像が膨らんでまいります。

なお、当ブログ上では、〇〇天皇陵を表記させていただきます。

鳥取藩蔵屋敷跡発掘現場

Tenpo江戸時代、大阪は天下の台所と呼ばれ、諸藩の蔵屋敷が置かれていた。


Keihan堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島にも多くの蔵屋敷が置かれ、我がマンションの敷地は豊後森藩と日出藩の蔵屋敷の跡地とのことだ。


0423マンションの隣地は高層ホテルの建設予定地なのだが、GW前に「遺跡発掘中」の看板が掲示された。
隣地は、鳥取藩(米子藩)蔵屋敷の跡地らしく、関電ビルや旧ダイビルの敷地には舟入りもある大規模な蔵屋敷だったようだ。


0506GW明けには姿を現してきた。


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どうやら井戸の跡や、石囲いのようなものが発掘されたようだ。
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発掘調査は1月半ほどで終了し、6月中旬にはすっかりと埋め戻された。
遺構の説明会は無かったが、いずれ「大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書」で掲載されるであろうから、2011年版の刊行が待ち遠しい。
追記
タイトルとは関連がないが、中之島の町会が中心となって、8月15日(月)に、田蓑橋と玉江橋の間の堂島川左岸において、精霊流しが開催される。
精霊流しというが、現在は灯篭流しは行わておらず、お盆のお供え物を集め、灯明を灯すだけだが、将来は灯篭流しを復活させたいとのことだ。
昨年開催の「中之島の精霊流し」(産経新聞より)
追記2
今年の開催について、京阪電車の駅等で配布されている、「月刊島民」に掲載された。
月刊島民Vol.37の17頁をご覧あれ。

わが街中之島

京阪中之島線が開業し、職場までの通勤時間がDoor to Doorで30分を切った。
10月19日の開業時の喧騒も醒め、時差通勤途上の渡辺橋は静かなものだ。
Watanabebashi
Heisei
平成の京阪大鳥瞰図より
我がマンションは、鰻料理店の中之島竹葉亭の跡に建っている。
転居早々、この中之島の歴史等を知りたくて2冊の古書を買い求めた。
「中之島 よみがえれ わが都市」
1974年刊で、当時は大阪市役所の建て替えが問題となっていた。
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あれから、30有余年 大阪市役所の建物も今では中之島になじんでいる。
昭和40年代は、ダイビル辺りはまだ宗是町と呼ばれていた。
もう1冊は「中之島誌」 厚さ5cm以上もある大作だ。
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昭和11年 大阪国税局の前身「大阪税務監督署」は今の市立科学館の並びに在ったようだ。
ジュンク堂書店で古地図の復刻版が販売されていたので、2点買い求めた。
「大阪市街新地図」大正13年駸々堂旅行案内書発行
Taisho
昭和戦前と大きな変化はないが、蜆川に出入橋、浄正橋といった今は交差点に名前を留めるのみの橋が健在である。
弘化二年大阪細見図
Koka
中之島は蔵屋敷の島だ。我がマンションも豊後森藩及び豊後日出藩の蔵屋敷の敷地であったようだ。
豊後森藩といえば、佐伯泰英の時代小説「 酔いどれ小籐次留書」の主人公の籍を置いた藩である。
また、豊後日出藩は、同じく「居眠り磐音」・NHK時代劇「陽炎の辻」の主人公、坂崎磐音の関を置いた豊後関前藩(架空)のモデルとなった藩であり、城下カレイでも有名で、親しみを感じている。